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世界に通用するゲーム会社を 起業家の大義と地元名古屋でのIPO
世界に通用するゲーム会社を 起業家の大義と地元名古屋でのIPO

起業家とジャフコの出会いから紐解く企業の「IPO STORY」。上場企業へと成長させた起業家の今だから語れるエピソードや想い、これからへの展望を語ります。今回は、2021年6月に東証マザーズに上場したワンダープラネット株式会社 代表取締役社長CEO 常川友樹氏と、ジャフコ担当キャピタリストの高原瑞紀による対談をお届けします。

【プロフィール】
代表取締役社長CEO 常川 友樹(つねかわ・ともき)
愛知県名古屋市出身、1981年生まれ。大学中退後に上京し、モバイルコンテンツ企業の執行役員を経て、2004年に東京にて最初の起業として、ネットメディア・コンテンツ企業を8年間経営。その後、2012年に名古屋に戻り、二度目の起業として、スマホ向けゲームの企画・開発・運営を主力事業とする、ワンダープラネット株式会社を設立。

【What's ワンダープラネット株式会社】
2012年9月に設立。「楽しいね!を、世界中の日常へ。」をミッションに、スマートフォン向けゲームの企画・開発・運営をするエンターテインメントサービス事業として展開。代表タイトルは「クラッシュフィーバー」と「ジャンプチ ヒーローズ」で、それぞれ世界合計ダウンロード数で1,300万、1,900万を超える。2014年2月にジャフコより資金調達を受け、2021年6月10日に東証マザーズに上場。

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大義を持った起業家になりたい。30歳で地元・名古屋に戻った

高原 常川さんに出会ったのは2013年4月でした。僕は当時、中部支社の新卒3年目で、新しい会社を探すのがミッションだったんです。たまたま目にしたゲームのプレスリリースがきっかけでした。


常川 社員数に対して窮屈なシェアオフィスで、開発メンバーと必死でゲームを作っていたときに高原さんがやってきました。とにかく「よくしゃべる方だなぁ」と思っていました(笑)。


高原 常川さんのアントレプレナーとしての経歴に驚いて、絶対にお話ししたい!と意気込んでいたんです。でも、その時は資金調達の話は出てこなくて、事業内容についても「追々ご説明します」と様子見だった。底知れない方だなと益々興味を引かれました。

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高原 ジャフコとは、ワンダープラネット創業前からお会いしていたんですよね。


常川 そうです。ワンダープラネットは2社目の起業で、20代だった2004年から2012年まで、ガラケー向けのコンテンツサービスを主力とした会社を経営していました。ジャフコさんに最初にお会いしたのは、2005年です。当時の会社は自己資金で経営していたので、資金調達はしない方針でした。


高原 そもそも、ワンダープラネット創業までの経緯をお聞かせください。


常川 小学生のときにゲームばかりやっていて中学受験に失敗し、高校生のときに父にパソコンを買ってもらったときからインターネット中毒になって、その当時から将来はインターネット事業の会社に関わりたいと思っていました。

2000年に何となく地元名古屋の大学に進学したのですが、当時は楽天やサイバーエージェントをはじめとするITベンチャーブームで、自分も早くその世界に入りたいと思い、大学は10日ほど通っただけで行かなくなり、上京しました。

上京後はサイバーエージェントとオン・ザ・エッジ(ライブドアの前身)の合弁子会社にアルバイトとして入り、その会社は後に楽天に買収されました。19歳だった私は、幸運にも当時最も勢いのあったITベンチャーを一気に3社体験することができ、そこにいた人たちとの繋がりもできました。その後は上司の起業を手伝い、しばらくして自分でも23歳のときに自己資金で最初の起業をしました。


高原 ワンダープラネットの創業にはどう繋がっていきましたか。


常川 最初に起業した会社が年商数億円規模になり、それなりに順調に8年ほど経営していたのですが、30歳になった頃から、「なぜ自分は東京で会社経営をしているのだろう」と感じるようになりました。漠然とですが、一度きりの人生に大義を背負って生きていきたいと思い始めました。

そこで、目を向けたのが、僕の唯一無二の故郷である名古屋でした。ワンダープラネットを創業した2012年当時、名古屋にはスタートアップやゲーム会社がほとんどありませんでした。名古屋出身の自分が、東京での経験を持ち帰り、地元にない業種の会社をつくり、成長していく中で上場して。その会社が将来的に世界で活躍するゲーム会社になることができれば、それが起業家としての大義になる。これはおそらく自分にしかできないし、自分がやるべき仕事である。そう思って第二の起業を決めました。遥かに遠い理想ですが、「京都の任天堂」の名古屋版みたいなイメージです。


ヒットタイトルを作るという覚悟を信じ、投資を決めてくれた

高原 起業後にぶつかった壁はありましたか。


常川 リリースしたゲームがとにかく全然売れませんでした...。

ワンダープラネットは、僕が単身名古屋に帰って「名古屋から世界に通用するゲーム会社をつくろう」という熱い想いからスタートした会社ですが、実態としては、僕はただのゲームが好きな人であってゲーム開発は未経験でしたし、当初採用した開発メンバーも地元で製造業等のソフトウェアをつくっていたエンジニアたちで、誰もゲームをつくったことがなかった。夢だけで無謀に走り出してしまった状態でした。

技術者としては地元の優秀な人材だけを集めていましたし、スタートアップやゲームをつくることへの強い情熱もあったので、頑張ればうまくできるだろうと思っていたんですが、当然そんなビギナーズラックはありませんでした(笑)。


高原 その後に私と出会うわけですが、最初からすぐ出資を決めたわけではないんですよね。

一度、話をいただきながらも、僕自身がゲームという評価の難しい領域に踏み切れなかったことで、出資機会を失ってしまった。「名古屋でこんな会社はなかなかないのに、見逃してしまう」という焦りがありました。2014年2月の出資は、次の目玉となるタイトルを作りますというタイミングで、ワンダープラネットにとって2度目の大きな資金調達。「今度こそ」という強い想いがありました。


常川 粘り強く連絡をいただけたのが嬉しかったですね。

「世界展開ができるゲームを作るためには、資金が必要」というタイミングでしたが、その時点で何ら説得力のある実績を出していたわけじゃなかった。僕が「やります!」と言っているだけの状況に大きなお金を出していただけるVCは、当時はジャフコさん以外にいませんでした。

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本音を言い合える関係を、二人で築いてきた

高原 やっと出資に繋げられたと安堵したのは一瞬で、その後は大変な日々でした。

そもそも当時のジャフコでは、まだ利益が出ていないシード期の投資は前例が少なく、チャレンジングなフェーズでした。またゲーム事業はいいものを作って配信し、マーケティングがしっかりしていれば成功するビジネスモデルです。お客様先を紹介して売り上げが伸びるわけでもなく、いい人材も集まっていたので、ジャフコが支援できることがほとんどなかった。今思えばただ見守っていればよかったんですが、焦ってちぐはぐなことばかりしていました。


常川 やきもきするのも当然だったと思います。

資金調達後に出したゲームがまたも全然売れなくて、現金がどんどんなくなっていきましたから。こちらとしても「次こそヒットさせるので待っていてください」と言い続けながら、ひたすら次回作を開発するしかなかった。

お互いの立場を考えると当たり前のやり取りなんですが、お互いに余裕がないからコミュニケーションも殺伐としていました。結局、ぎりぎりの資金で最後に開発したタイトルが後の代表作となる「クラッシュフィーバー」ですので、ジャフコさんから出資いただいた3億円がなかったら、今のワンダープラネットはありません。


高原 結果としてそういっていただけるのはありがたいです。

でも、クラッシュフィーバーができる前に、倒産を覚悟した日があったんですよね。ある会社から出資される予定の2億円のファイナンスが直前で白紙になって、このままでは来月潰れることが確実になった。


常川 あのときは、「もうやれることはない。誰にどう謝っていこうか」と考えました。僕を信じて出資を決めてくれた高原さんをはじめジャフコの皆さんの想いもすべて裏切ってしまったと、精神的にかなり追い詰められていましたね。

高原さんから「他のVCを全部回って、なんとか出資を集めましょう」とリストが送られてきたのですが、「一つ一つ回っている時間はないですよ」と言い合いになりました。


高原 結局あるVCから出資いただいて乗り切ることができたのですが、本来は、こうなる前に僕がリカバリープランを用意すべきだった。ワンダープラネットに出資し7年が経った中での、最大の反省です。常川さんと落ち着いて話せるようになったのは、クラッシュフィーバーがリリースされてきちんと売上が付いてきた2015年秋ごろでしたね。


常川 お互いに気まずくて直接会話することがどんどんなくなっていったので、「いいかげん腹を割って話しましょう」と焼肉屋に誘ったんです。


高原 焼肉食べながら、「あのときはありえなかったよね」「いやいや、そっちこそ!」と本音をぶつけ合った。

そこで「もっと寄り添ってほしかったです」と言ってくれた常川さんの一言は、鮮明に覚えています。僕は、出資を決めた起業家を信じて支え切ることができていなかったんだと。あの一言がキャピタリストとしてのその後の自分のあり方にも、ものすごく影響を与えました。常川さんからは大事なことをたくさん教えていただいたと思います。


ワンダープラネットTシャツを着続ける姿勢がうれしかった

常川 高原さんは、何らサポートできていないと恐縮していますけど、全然そんなことはありません。

クラッシュフィーバーをリリースした直後は、想定以上のアクセスが集中しサーバーがダウンして何週間も接続できなかったんです。メンテナンスにしても毎日多くの方が訪れるので、戻りかけてもまたダウンしてしまって。

その事態を救ってくれたのが、高原さんに紹介していただいたAiming(※ジャフコが投資し上場しているゲーム会社)CEOの椎葉忠志さんだったんです。


高原 ジャフコ主催で開かれる、年に1回のオフラインパーティーでご紹介したんですよね。その後、師匠と弟子のような関係を築いたのは常川さんなので、人材の"引き"は本当に強いです。


常川 当時からAimingは技術力が高い会社でしたから、椎葉さんに「クラッシュフィーバーが開かないんです」と泣きついたところ、「仕方ないな、助けてやる」と言って、AimingのCTOをはじめエンジニアの方々を一斉に名古屋に送り込んでくれたんです。その後無事にクラッシュフィーバーを再開することができました。椎葉さんの漢気とジャフコ・ファミリーの絆のおかげです(笑)。


高原 いやいや、私はその場でご紹介しただけであって、その後の関係性は常川さんあってこそですよね。常川さんはいろんな方を味方にする力をお持ちだなと感じてました。


常川 お恥ずかしながら、本当にいろんな方に支えてもらっています。

ワンダープラネットは、"最後発のネイティブ・スマホゲームの会社"と言われるほど創業のタイミングは遅かったと思います。いまや、ゲーム開発費がどんどん高騰し、スタートアップが新規参入できる事業ではなくなっている。そこにぎりぎり滑り込んだので、業界の先輩の皆さんが「大変なところによく来たな」という感じで面倒を見てくれました。


高原 僕がIPOに向けてできたことは、取締役会で「ワンダープラネットTシャツ」を着ていくことくらいでしたよ(笑)。


常川 「また着てきたんですか(笑)。」と茶化していましたけど、内心ものすごくうれしかったですからね。錚々たる株主が揃って重い雰囲気の中に、昔からいる気心の知れた高原さんが、ワンプラのTシャツを着てくれている。いつだって味方でいてくれていると感じていました。

出資いただく以上、ジャフコさんに限らず、さまざまな利害関係がある中で、常に自分のことを応援し、信じてくれて、寄り添う想いを示してもらえることは何よりも起業家の自信とエネルギーに繋がります。

本音をぶつけ合ってからの高原さんとは、本当にいい関係性を築くことができましたし、この人が信じた会社を絶対に成功させようという起業家としての使命感を刺激されました。

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世界に通用するゲーム会社として次のステージを目指したい

高原 IPOに向けては、複数ヒット作があり業績が安定しているという前提が必要だったと思います。ヒットを作り出す再現性は、やりながら確立しているんですか。


常川 「クラッシュフィーバー」のときもそうでしたが、ヒットにたどり着くまでの失敗から改善点を学び、プロダクトだけでなく組織も含めて、一つ一つ改善を反映させながら着実に前進してきました。「クラッシュフィーバー」が国内外でヒットし、そこで自信やコツをつかめたことで「ジャンプチ ヒーローズ」も続くことができました。

少し不器用かもしれませんが、コツコツと真面目に改善を繰り返して長期的に成長させていくのが、ワンダープラネットのやり方です。


高原 危機に瀕するたびに、ちゃんと常川さんのビジョンに共感してくれる強いインベスターが現れるんですよね。そこが、ワンダープラネットが非連続的な成長を遂げてきた背景なのかなと思います。


常川 創業当初からIPOを目指したのは、名古屋では数少ないスマホゲームという産業にチャレンジし、永続するために不可欠だったからです。ようやく上場というスタート地点に立って、今は次のステージを目指しています。今後発表する最新作がいつも代表作になるようなものづくりをこれからも続けていきたいですね。


高原 僕としては、ワンダープラネットに出資させていただき、常川さんに教えてもらったことを違う担当案件で活かすことが、今の自分にできることかなと思っています。


常川 20代の自分からは想像できない、人生観が変わるような出来事を、30代で高原さんと一緒に経験できた。すごく濃い付き合いをさせていただいていて、感謝しかありません。背景修正後_DSC7773 (1).jpg

常川氏とジャフコ担当キャピタリストの高原瑞紀(左)