業界をリードする一流企業のベンチャー時代のストーリーに迫る「BACK TO THE VENTURE」。今回ご登場いただくのは、2020年10月に持株会社化した株式会社ヤマダホールディングス 監査役の岡本潤氏。群馬県前橋市の電器屋から国内最大手の家電量販店へとのぼりつめたヤマダ電機が抱き続ける、現状に甘んじないベンチャー精神とは?
【プロフィール】
株式会社ヤマダホールディングス 監査役 岡本 潤 (おかもと・じゅん)
1956年大分県出身、大阪大学法学部卒。1979年より野村證券株式会社で勤務後、2006年4月に株式会社ヤマダ電機入社、2006年6月には取締役 専務執行役員 管財本部長 兼 経営企画室長に就任。その後、2012年4月に取締役 兼 執行役員副社長 経営企画室長 兼 S×L担当室長 兼 CSR推進室長、2019年10月に取締役 兼 執行役員専務 経営企画室長 兼 サスティナビリティ推進室長を経て、2020年6月監査役に就任(現任)。
【What's 株式会社ヤマダホールディングス】
1973年、群馬県前橋市で山田昇氏(現株式会社ヤマダホールディングス代表取締役会長)によってヤマダ電化サービスとして創業。1983年に株式会社ヤマダ電機を設立し、2000年には株式を東京証券取引所第一部に上場。国内最大手の家電量販店として、業界をリードする。
1973年、前橋に「ヤマダ電化サービス」誕生
ー岡本さんは2006年に、野村證券からヤマダ電機へ社長室付顧問として入社されました。なぜ、ヤマダ電機へジョインされたのでしょうか?
ヤマダ電機はもともと野村證券に勤務していた頃のクライアントでした。当時社長だった創業者の山田(株式会社ヤマダホールディングス代表取締役会長 山田昇)から声をかけてもらい、最初はそんな能力はないからとお断りしていたんですが、熱心に何度も誘ってくるので40代の最後に新しい挑戦もいいかなと受けることにしました(笑)。
ーその頃のヤマダ電機はどんな状況だったのでしょう。
2002年に家電量販店の国内最大手となり、勢いに乗っていた時期です。神奈川でディスカウントストアを展開していたダイクマを吸収合併したことが大きいでしょう。雑貨類を扱い始めたことで、家電で貯めたポイントの利用や会員増加が加速。神奈川のシェア拡大や、優秀な人材の確保にも繋がりました。
ーそうした成長の転機は、1973年の創業から幾度かあったと思います。ベンチャー時代のエピソードは山田会長からお聞きになっていますか?
ええ。私も講演ではよく自分のことのように話していますよ(笑)。
ヤマダ電機の原点は、日本ビクター(現:JVCケンウッド)出身の山田が30歳のときに開いた家電店です。奥さんもビクターの人で、独立したのは長男がお腹の中にいた頃。脱サラのきっかけは、「能力をもっと正当に評価される環境で仕事がしたかったから」だと聞いています。
当時はカラーテレビが普及し始めた時代で、家電は訪問販売が主流。山田は松下電器産業(現:パナソニック)と契約し、まずは近所を1日300軒、合計10,000軒のローラー作戦で市場調査をしたとか。山田は、テレビ技術の専門学校を出ていたので販売だけでなく修理も請け負い、5年目で5店舗・年商6億円にまで拡大しましたが、人材育成の難しさに直面して本店以外の店舗を一旦閉めることになりました。
ー様々なメーカーの商品を取り揃える家電量販店という業態は、どのように発想したのでしょうか。
店を閉める際、当時はまだ珍しかった「家電のチラシ」を作って在庫一斉処分セールをしました。それをきっかけに商品が飛ぶように売れて、松下電器以外のメーカーも「うちの商品を扱ってくれ」と売り込みに来たのだそうです。複数の商品を比較して購入できることにお客さんも喜んでくれたようで、そこから安売りの「家電量販店」という業態をスタート。甥の兄弟(ヤマダ電機元経営陣の一宮忠男氏と一宮浩二氏)を宮崎から呼び寄せ、店舗を増やしていきました。
店舗拡大を進めるも、資金調達に苦戦
店舗の写真を切り貼りして描かれた山田会長の肖像
ー1983年に株式会社ヤマダ電機を設立後、1985〜1987年にジャフコ(当時は日本合同ファイナンス)から3回にわたって投資を受けています。その頃のエピソードもお聞かせください。
実は、当時は銀行からの資金調達に苦戦していました。店舗はすべて借家で担保がなかったからです。地方の場合、バイパスが1本できただけで立地条件が変わってしまうため、購入するよりもレンタルのほうが、リスクが少なく効率的。でもその代わり、銀行には相手にしてもらえませんでした。
その頃は年商200億円くらいだったかな。店を出せば儲かることはわかっていたのに、資金がなくて出店できない。そんな苦しい状況のときに来てくれたのがジャフコさんでした。当時勢力を伸ばしていた小売チェーン業態は投資対象として注目されていたようです。3年でトータル約14億円の投資を受け、1989年にJASDAQ上場。これで株式市場からの資金調達が可能になりました。
ー株式会社化から株式公開まで約5年。資金調達という目的があったとはいえ、そのスピードを後押ししたものは何だったのでしょう。
山田が量販店を始めた頃、栃木に同じような人がいるという噂を耳にしました。小島電機(現:コジマ)創業者の小島勝平さんです。すぐに表敬訪問し、いずれ群馬に進出するであろうことを予感した山田は、株式会社化や出店を進めて地固めをしたのです。
しかも小島電機には銀行のバックアップがついていて、ひと足速く店舗を拡大していた。小島さんに負けまいと必死だったのだと思います。山田は今でも、当時のジャフコの担当者さんのことを「恩人」と話していますよ。
ーライバルの存在が企業を成長させたのですね。
群馬のヤマダ電機、栃木の小島電機、茨城のカトーデンキ(現:ケーズホールディングス)、3社の大安売り合戦は「北関東家電戦争」「YKK戦争」と呼ばれました。そこに広島のダイイチ(現:エディオン)が参入し、ヤマダ電機は広島進出を皮切りに全国に乗り出します。
その頃うちはNEBA(日本電気大型店協会)を脱退していて、加盟企業より10%ほど高い原価で商品を仕入れていたので、メーカーは次々に協力してくれました。仕入れた商品は北関東と同水準の低価格で販売したため、客足は予想以上に伸びました。原価の高い商品を安売りしても利益が出たのは、広島進出を機に導入した自社物流システムや新しいPOSシステムにより、交叉比率(商品回転率×粗利益率)を高められたからです。
ーそして2002年には、1997年に業界首位となったコジマを抜いてトップに躍り出ました。
2000年に大店立地法(大規模小売店舗立地法)が施行されるまでは、500平方メートル以上の店舗の出店時に審査が入るというルールがありました。そのため、どの企業も500平方メートル未満の店舗を積極的に出店していたのですが、大店立地法の施行で店舗面積による規制が廃止に。スクラップ&ビルド前提だったヤマダ電機はそれまで出店コストを抑えていたので、容易に大型店へシフトして出店スピードを速めることができたのです。
先ほどお話ししたダイクマの吸収合併が第二の成長転機だとすれば、最初の転機はこの2000年の出来事でしょうね。同年に東証一部上場も果たしました。ちなみに、ヤマダ電機の「キ」を「器」ではなく「機(モーター)」にしたのは、当時から家電販売を超えた事業展開を見据えていたからだと山田はよく言っています。
成功体験に甘んじず、「創造と挑戦」を続ける
ー2002年から現在まで業界トップの座を維持し続けていますが、それができている理由はどこにあるとお考えですか。
山田は「なぜこんなに二番手以下を意識するのか」と思うくらい、トップであることを強烈に意識しています。2位の家電量販店との売上の差は2倍近くあるにも関わらず、です。トップ企業は常に追われ、真似される宿命にありますから、次々と変化していかなければならないのです。
うちの店舗を見ていただいたらわかると思いますが、一般的な家電量販店とは違ってきているでしょう?
ーはい。昨年子会社化された大塚家具のインテリアが家電と一緒に展示されていて、モデルルームのようでした。
2011年の東日本大震災を受け、家電を扱う企業だからこそできることとして、太陽光パネルや蓄電池、EV等のスマートグリッド事業をスタートしました。それがリフォーム事業を始めるきっかけとなり、家電・インテリア・住宅・リフォーム・金融・保険等をひっくるめて「暮らしまるごと」提案という、現在強化している事業コンセプトに繋がっています。
パソコン販売に関しても、パソコンが普及する前の1990年から専門店を展開。当初は赤字事業でしたが、Windows 95が発売された1995年頃から急成長し、現在のデジタル関連商品の業界シェアは約30%超にのぼります。
本社がある高崎駅前の『LABI1 LIFE SELECT 高崎』店内
ー東日本大震災がきっかけで、今の事業に繋がっているんですね。ちなみに、昨今のコロナショックの影響はどの程度あったのでしょうか?
都市型店舗は苦戦していますが、地方の業績は伸びています。在宅が増えたことで暮らしを快適にしたいというニーズが増え、外食やレジャーにお金を使わなくなったこともあって家電全般が売れているんです。
来店を促せないので販促費が例年の5割以下に減り、営業時間を短縮したことで人件費も減りました。一方で売上は上がっているのですから、普段から見直すべき部分がたくさんあったことに気づかされましたね。コロナ禍で教えられたことは数多くあります。
ーまさに、ピンチをチャンスに変えて成功を掴み、それを継続されているのはすごいことです。山田会長は最初から業界トップを目指すつもりで会社を立ち上げたのでしょうか。
ジャフコさんにお世話になっていた頃は目の前のことに必死で、そこまで考えていなかったと思いますよ。でも我々のようなビジネスモデルで重要なのは規模の利益、つまりスケールメリットです。競合と同じ商品を売る以上、1台より10台、10台より100台売ったほうがコストを下げられたりリベートが入ったりするため、粗利が上がる。そのため「売上」より「シェア」を高めることを意識していたのでしょう。
トップになれば、下位の競合が対立して撤退することによる残存者メリットがありますし、マーケットのプライスリーダーになれます。消費者に「ヤマダは安い」というイメージを持ってもらえれば、何もしなくてもうちに足を運んでいただける状態をつくり出せるので、トップであり続けることの意義は大きいと思います。
ーその後、ジャフコとはどのようなお付き合いをされていますか?
ビジネスパートナーとなる企業をご紹介いただく等、上場後もお付き合いさせていただいています。当社のパートナー先としては、アーリーステージのスタートアップがマッチすることも多く、例えば、コロナ禍で導入した顔認証決済システムもスタートアップにお願いしました。ジャフコさんとは様々な形でこれからも末長くお付き合いできると嬉しいですね。
岡本氏とジャフコ担当キャピタリストの菊池正人(左)
ーありがとうございます。では最後に、これから事業拡大を目指す起業家のみなさんにメッセージをお願いします。
コロナの影響で苦しい時期が続いていますが、いつでも「ベンチャー精神」を忘れないでほしいと思います。私たちの経営理念も「創造と挑戦」。心は常にベンチャーです。インターネットと店舗を連動させた『YAMADA web.com店』や『家電住まいる館』『アウトレット館』の展開、廃プラを電気に変えるといった環境事業等、新しいチャレンジを常に頭で考えています。成功体験に甘んじず、どうすれば事業がより良くなるかをぜひ考え続けていただければと思います。